南の十字から来た男 - 2/6

 完全無欠のピアノの音色がマナの神経一本一本を入念に爪弾く。
 癇に障る音を押し出すようにマナは酒を呷る。いつものビールと違って、ねっとりとした液体が喉を灼きながら胃の腑に垂れ落ちる。ちりちりと、仰反る喉に刺さるお馴染みの偏執的な視線。空になったグラスの中で巨大な氷が傾いて涼やかな音を立てる。
 カウンター越しに、バーテンダーに同じ酒を注文する。もちろんダブルで、とVサイン。
 席はそこそこ埋まっているが、喧騒や猥雑さとは無縁の店内。穏やかな会話や和やかな雰囲気が場を占めている。表面上、客層はとてもよい。
 マナさえも、T4-2が虎視眈々と用意していた上等な服を身に纏って大人しくしていれば上客然として店の一部に見える。
 こんな百貨店にあるような服を買うからお茶代もないのだ。では果たしてここの飲み代は?
 まあ何とかなるだろう、とマナは隣に座る男の仕立ての良い上着の背を撫でた。
 そして金の心配よりなにより、さっさと引き上げたい気持ちが強い。この空間はどこを取ってもT4-2のように完璧に洒脱でマナには落ち着かない。
 酒場で与太話がしたい! と希った汎用亜人型自律特殊人形の言うところの酒場とは、マナが入り浸るような気安い居酒屋ではなく、洒落たバーの事だったのだ。
 生演奏が一曲終わって、長閑な拍手の音。
 圧迫感のある巨体がマナと一つ席を空けて隣に腰掛ける。
「ちゃんとおひねり貰ってきた? 飲み代になるくらいは」
 マナはじっとりとT4-2を睨みつける。ピアノが空いているからって、また目立つ事をしやがって、という怨念も込めて。
「そういう事はもう仰らないのではありませんでしたか」
 T4-2は軀をマナの方へ向け、小首を傾げる。嗜めるというよりは、揶揄っている雰囲気の声色だった。
「あんたは直さなくていいって言った」
 そうでした、そうでした、とT4-2は人差し指を指揮棒のように振り回す。
「では、私の演奏についての評を伺ってもよろしいですか」
 光の加減で深まって見える微笑は自信をたっぷり湛えている。
 否定的な評価などまるで予期していないだろう精密機械にマナは簡潔に言い放つ。
「最悪」
「そんな」
 T4-2は双眸の明かりを落とし、大仰な仕草で胸に手を当てる。心外だとでもいいたげ。
「うるさかった」
「“二人でお茶を”は決してうるさい曲調ではありませんよ。その上で私の持てる最大限の柔らかさと滑らかなタッチで弾いたのですが」あなたに触れる時のように、とT4-2。「それとも“ボーイ・ハント”の方がよかったでしょうか」
「ピアノの音そのものが嫌いなの。頭と耳にキンキン響くから」
「ではあなたのために奏でるなら何がよろしいですか」いつもは女の子のように脚を揃えてお上品に座るくせに、珍しく長い脚を見せつけるように組み、じいっとマナを見つめるT4-2。「今後はあなたのお好きな楽器を練習いたしましょう」
 カウンターに置かれたマナの手にじわじわと伸びてくる白い手。
「金管楽器」
 しかしその手はマナの無慈悲な言葉に振り払われて、触れる寸前でぴたりと止まる。
「悪い人ですね。あなたは私がどう足掻いても管楽器を吹き鳴らす事はできないとご存じの上でそう仰る。嗚呼、それとも」
 T4-2の手が逃げかけるマナの手を翼を広げた猛禽のごとく機敏に捕らえる。手袋越しでも伝播してくる男の掌の熱っぽさ。
「私そのものを金管楽器になぞらえていらっしゃるのですか」淫らな色に歪む双眸。二人きりの時のように、いやましに低く蕩ける声。「いいでしょう。私の音楽が、あなたの恋の糧になるというのなら……」
「俺を挟んで女を口説くな!」
 マナとT4-2に挟まれる位置に座してカウンターに突っ伏していた男が勢いよく身を起こす。
「置菱さん、まだ生きて……」そこまで言ってT4-2は手を顔の前でひらひらと振り、剣呑な言葉を発音の似た別の言葉に置き換える。「起きていらっしゃったのですね」
 内藤マナと内藤丁、二人と因縁浅からぬ置菱徹は財閥の御曹司にして大金持ちにして高級外車のオーナードライバー。そしていけ好かない男。
 置菱はマナとT4-2がバーに着いて席に座るか座らないかのうちに現れて、無理矢理身体を割り込ませて二人の間に陣取ってきたのだ。
 暇なのか、面白くない事でもあったのか、呑む相手を探していたのか、おそらくそのすべてで、置菱はT4-2相手に延々とつまらない話を繰り出す始末。
 マナとの個人的な時間を少しでも多く確保したいのであろうT4-2は、早々に倫理的によろしくない手段に訴えた。即ち酔い潰す事。
 T4-2は男のしょうもない話に適度に相槌を打ちながら、持ち前の周到さで置菱の目の前のグラスを空のままではいさせない。
 その上でもう飲めないと言う置菱に、アルコールを嗜めない哀れな機械の代わりにあなたが少しでも味わってくださったのなら大変な慰めになります、と言い募り限界を超えさせるT4-2の手腕にはマナも脱帽ものであった。警官よりカウンターの向こう側の人をやった方がいいのではないだろうか。
 こうしてとうとう置菱は酒精に打ちのめされてカウンターにその身を預け、標的を討ち仕留めたT4-2は満足し、マナのためとピアノで一曲自分だけ盛り上がってきた次第であった。
「大体貴様機械のくせに人間の女を……」マナなど眼中になかった置菱が、とうとうマナの方を向く。「むむーっ、お前、どこかで会った事あるな!?」
 猿もかくやという真っ赤な顔で呂律の回らぬ喋り方の置菱がマナを何度も何度も不躾に指差し下から顔を覗き込む。いけ好かない男だ。
「ないです」
 マナはピシャリと言い放ち、置菱の前に水の入ったグラスを滑らせる。置菱はそれを一気に飲み干し、酒と水の区別もつかない程に酩酊が極まっているのか、アクアビットだ! と叫ぶ。ある意味ではそうですねえ、とT4-2の冷たく低い合成音声。
「お前のピアノよかったよ!」そして置菱はT4-2の肩を気安くばしばし平手で叩く。「万雷の拍手!」
「大変嬉しく思います」
 T4-2はというと、お褒めの言葉の返礼とばかりに置菱に琥珀色の液体の入ったグラスを差し出す。
 殺す気か、とマナは視線でT4-2を止めようとするが、察しが良いのか悪いのか、機械はまったく意に解さない。
 マナは置菱の代わりにT4-2の手からグラスを奪い取って呷りながら、置菱には水を押しつける。女からの酒は格別だなあ、今度は清酒か! と言いながら水をごくごく飲む男。こいつ相当な大馬鹿野郎だな、とマナでさえ唖然とする。
「でもよくよく考えたら機械なんだから上手いのは当たり前だよな。そういう風にできてるんだろう」
 本当に大馬鹿野郎だな、とマナは呟く。
「身体機能と容姿は天賦の代物ですが、それ以外の殆どの事柄は反復的な学習と実践の賜物です」
 置菱は汎用亜人型自律特殊人形のそんな言葉は右から左で、再び身体の支持を失い、カウンターに上体を預けて溶けたようになる。
「店で寝るな。もう帰りなよ。電話して誰か迎えに来させようか」
 マナは置菱の後ろ襟を掴んで揺さぶるが、彼は夢現で気の抜けた笑いと寝言を漏らすだけ。
「こんなになるまで呑ませないでよ」
 マナの非難を受けても、T4-2は至極いつも通り、アルカイックスマイルの張り付いた貌に平坦な口調で答える。
「彼のアセトアルデヒドの分解機能がここまで貧弱だとは思わなかったものですから」
「美徳回路イカれてるんじゃないの」
 そもそも、本当に美徳回路なんてものが存在しているのだろうか、とマナはここ数時間疑っている。
「それは私にも分かりかねます。何しろ美徳回路周辺にはブラックボックスが多すぎて自己診断が困難です」
「やりすぎ。死ぬよ。やめて」
 マナが顎で置菱を示してやれば、T4-2はしばらく酔っ払いを冷たく睥睨した後、組んだ脚をぱたと下ろし、身を竦めて胸に手を当て、驚いたような丸い目をマナに向ける。
「私、おかしいでしょうか」
「いやあたしは最初っからあんたの事おかしいって言ってるよね。初めて遭った時からさ。頼むから他人の言葉をもっと真摯に受け止めて。特に今日一日は輪をかけておかしいよ。脚組んで座ってるし、身体も熱いし、心臓の動きも早いし、盛り過ぎだし、感情狂ったなんて言うし……」
 恋をしてるんだ! と置菱が突然覚醒してがなりたて、マナによって後頭部を押さえつけられてカウンターに再び沈められる。
 T4-2は自分で自分の手を握り、次いで思案げに光学レンズの横を指でトントンと叩く。
「鎌倉に行かなくては」
 抑揚に欠けた声が静かに告げる。
「なんでいきなり鎌倉。あたし何か聞き漏らした?」
「牧島博士に点検してもらわなければなりません。必要とあらば修理も。あなたのお兄様からも是非そうしろと、明日から三日間の休暇をいただいておりました」
 そういえば、T4-2を作った牧島博士だかは、鎌倉在住と言っていた。あれだけめったやたらに身体を破壊されたのならば、一度診てもらった方がいいだろう。
「そういう事はもっと早くいいなよ。三日間ずっと鎌倉にいるの?」
「そうなるでしょう」
 ふうん、と気のなさそうに言いながら、マナは置菱の尻と椅子の間に手を差し込み、彼の尻ポケットを弄る。そして目当てのマネークリップで纏められた札束を取り出す。咎めるような、呆れたようなT4-2の眼光。
 そういう顔をするなら、とマナは人差し指と親指を擦り合わせて“金寄越せ”のサインをし、非難の色を帯びた眼前に突き出すが、男は懐に手を当て首を横に振るのみ。
「食い逃げするつもりだったの。警官のくせに」
「ついうっかり。いえ、本当に申し訳ありません。後で必ずお返ししますから」
「こっちは店に気を遣ってあんたの分まで飲んでやったってのに」
 マナは溜息をつき、洒落者から貸与された小さな白い箱形の鞄を開いて、くしゃくしゃの紙幣を何枚か取り出しカウンターに置く。
「明日何時出発」
「朝の七時半には家を出ます。見送りの必要はありません。休日ですからね」
「列車で行くんだよね」
「はい。八時の東京駅発横須賀線です」
「じゃあ七時半じゃ遅いでしょうよ」
 本当に時間にルーズな奴だ。その上に方向音痴なのだからもっと余裕を持って行動しろというのだ。東京駅どころか、上野駅でふらふら彷徨うT4-2が目に浮かぶ。
「明日から連休だから朝から駅混むし、手ぶらで行くわけにいかないんだから、お土産もどこかで調達しないと。あたしは荷造りしたいから、もう帰る」
 マナは最後の一杯を注文し、有り難みなく胃の腑に流し込むと、置菱のマネークリップから多めの紙幣を抜き取りカウンターに乗せて「置菱くん、ここはあたしが」あんたの懐から「払っておくからね」と、恩着せがましく置菱の耳元で囁く。
 そして、懐というよりは、尻からか? とマナは一人で下品に笑う。
「何故お土産とあなたの荷造りが必要ですか」
 T4-2はお行儀良く脚を揃えて、手を膝の上に載せて首を傾げている。巨漢には似合わぬ稚い仕草。最近ちょっと、微かに、僅かに、可愛いと思わなくもない。
「あたしがまったく思ってもない事を察したり、ちょっとした事からやらしい妄想したりするくせに、こういう事は言わないとわかんないの、あんたは」
 マナは眉を跳ね上げ顔を顰め、しかし視線はゆらゆら彷徨わせる。さすがに少し酔ったかもしれない。
「至らず申し訳ありません」
「あたしも行くって牧島博士に伝えといて。無線だか電話だかできるんでしょ」
 T4-2は全身から喜色を揮発させて弾かれたように立ち上がる。
「一緒に来ていただけるのですか!」
「うるさい。声が大きい。いいから、ほらっ、あんたは置菱くんの上半身持って、あたしは脚持つから……」
 照れ隠しのマナの言葉を無視して、T4-2は鞄か新聞かのように軽々と小脇に置菱を抱える。
「つまりあなたは牧島博士にこう宣言なさるという事ですね」T4-2が咳払いのような音を立てる。「T4-2をわたしに下さい!」合成音声がマナの声色を忠実に模倣して今際の際でも絶対に言わないであろう事を宣う。
「それ二度とやるな」
 マナはT4-2の胸をドンと叩き、さっさと店を後にした。

 邪魔者と共にタクシーに乗り、T4-2が運転手に告げた住所は驚いた事に内藤家のほど近く。
 マナも時折その広大な敷地の前を通りがかる事がある。高い塀と鬱蒼とした樹木に囲まれて中を窺い知る事はできないが、滅茶苦茶金持ちが住んでいるのは確かだろうなと思っていた。まさか置菱の家だとは。
 物知りロボット曰く、外から見るのと違って敷地の中は随分開けて、御雇外国人が設計した洋館や撞球室——が何なのかマナは知らないが——が建っているのだとか。
 先の大戦では戦後に接収する事を目論まれ、置菱邸とその近隣は空襲を免れたらしい。
 戦前から建つボロ屋の内藤家が焼夷弾の塵とならなかったのも、幼い時分のマナの兄が戦火に逃げ惑う憂き目に遭わずに済んだのも、氏神様と置菱邸のお陰、とT4-2は車内で講釈垂れていた。
 置菱邸にタクシーをつけると、門扉横にある電話ボックス程度の大きさの詰所から警備員が何事かと駆け出してくる。
 剣呑な見た目のT4-2の代わりに、マナがつっけんどんに言う。
「店で寝てたから連れて帰ってきただけ。この人の車、店の前に置いてきちゃったから、誰かに取りに行かせた方がいいよ」
 本当なら路駐していた置菱の車で送ればよかったのだろうが、T4-2は運転免許を持っていないと言うし、飲酒したマナが運転するのも、彼はまた当然良しとはしなかった。
 そしてロボット警官は車のキーを運転席に投げ込み、ロックもしないでドアをなおざりに閉めたのだった。盗ませる気かと唖然とするマナに彼は、緊急車両等の通行の妨げになると困るから誰でもいつでも動かせるようにしただけ、と宣い、あまつさえ無線で放置車両ありの通報さえしていた。いい感じに悪意じみた善行が極まっている。
「本当に、早く行った方がいいよ」
 まあ多分もう遅いだろうけどさ、と呟きながらマナは警備員に抱えられた置菱の尻ポケットに札束と硬貨を捩じ込む。
「置菱くん、タクシー代も払っておいてあげたからね」
 置菱は、んへぇ、だか、あへぇ、だかいう声を上げ、マナとT4-2に手を振りながら邸宅まで続く長い坂を引き摺られるようにして消えていった。
「飲み代もタクシー代も浮いてよかったね、着道楽さん」
 マナは傍のT4-2を見上げてニヤっと笑い、彼の肘をちょいちょい突く。
「それにあなたは置菱氏の臀部に触る事もできました。役得です」
 マナを見下ろす二つの望月は少々冷たい。
「好きで触ったわけじゃないよ」
 お金目当てだもん、とマナ。それもどうかと自分でも思うが。いやそもそもT4-2が金も持たずに出かけるのが悪いのでは、という話である。
「背中も撫でていました」
「あんたに酔い潰されて、可哀想で」
「可哀想」T4-2は首を捻る。「なるほど」そして頷く。
「あんたあたしの事ずっと見てたよね。ピアノ弾いてた時もそうだった。視線感じたんだから」
「先日申し上げた通り、私は余所見はいたしません」
 余所見はしないって文字通りのそういう意味かい、とマナは呆れる。
 日付が変わる間際の雨上がりの夜はまあまあ冷えて、マナは肩に巻き付けたストールを首元で掻き合わせる。
「早く帰ろう。寒い。なんでこんなの着せた」
 まだ春なのに首が開いた袖なしのサマードレスなど。君よ知るや夏のなんたら、というショウウインドウの文句が脳裏を過ぎる。夏の誘惑を知る前に凍死しそうだ。
「お洒落が天命ならば、季節先取りは宿命で忍耐は運命です。そして美しくあるのは使命」
 T4-2はマナの非難を意味不明の理論で受け流す。しかし思いやりというものは持ち合わせているようで、自身の二列ボタンのジャケットをマナの肩に掛ける。
 軀が随分熱いのか、ジャケットの内側は暖かく、そして石鹸の清い匂いがした。
「あんたは寒くないの」
 いつもの丈の長い外套姿は視覚的に暑苦しく感じる気候になってきたが、シャツ一枚の今の出立ちだと少々寒々しく見える。
「燃えるように熱いくらいです。恋でしょうか」
 まともに返事をするのも馬鹿馬鹿しく、マナは、ハイハイ、恋だね、と聞き流す。
「運転免許取れば? どうせ仕事じゃいつも兄に運転させてるんでしょ。たまに代わってやればちょっとは気に入られるよ」それに、こういうとき暑さ寒さに煩わされず移動できるではないか、とマナの下心が滲む。
「私には受験資格がありません」
「五歳だもんね」
「いいえ、そうではなく、私はこの国の国民とも、人間とも言い難いがためにです」