嫉妬と献身 B - 3/7

 途端頭の中に直接響く男の声。
「酒場で置菱製作所に盗みに入るという話を聞いていただろうと問い詰められて、連れ去られそうになった。と言ってください」
 まるでテレパシー。
 驚き声の主の方へ向きそうになるマナの頭を的確な力加減で押さえつけ、T4-2は短くマナを窘める。
「こちらを見ないで」
 マナの両耳の後ろに宛がわれた機械仕掛の親指と中指が微細に振動し、マナの頭蓋骨に直接声を轟かせる。男の低い声に爪先から脳髄まで、軟骨から五臓六腑までが震える。
 素肌に触られるだけで身震いしてしまうというのに、そこへ来て脳を揺らすように直接声を叩き込まれると腰が……といわず体中の骨が砂礫になって砕けそうになる。情けない息を吐き、浅くなる座り方。
 どうしたんですか、と雛壇の人物に尋ねられ、マナは居住まいを正して取り繕う。
「いや、あの、混乱してて……」
 お気持ちよくわかります、と脳内のT4-2の声。うるさい。お前のせいだ。
「置菱製作所に盗みに入るという話を」「酒場で」間髪入れず付け加えられるT4-2の言葉。「酒場で聞いていただろうって問い詰められて、連れていかれそうになりました」
 ふらふらいっつも飲み歩いてるからだ、と秀に後ろからパイプ椅子を蹴っ飛ばされる。
 暴力はやめましょう、椅子に罪はないのですから、とT4-2が秀に言う。
 椅子に罪はなくとも、マナにはある、というような含みを感じる。
『この人が壊しました』
 スクリーンのマナが真っ直ぐこちら……T4-2を指差す。
「壊しました、というのは?」
 思うに自分も余計な事を言い過ぎる。T4-2の事をうるさいだのお喋りだの言えない。
 マナはT4-2の言葉をたどたどしくなぞって伝える。
「盗みの計画の事です。その男の人、計画を壊したなって滅茶苦茶怒ってて……だから計画を壊したのはあたしじゃなくてT4-2ですって、そういう意味で言ったんです。だって、ある意味そうですよね、隅田工場で大立ち回りしたのは……」
 マナは横目でT4-2を見上げる。言われた通りに喋っているだけとはいえ、申し訳なさを感じないでもない。
 T4-2は、構いませんよ、とでもいう様子で、前を見たまま軽く頷く。
『知らない。じゃ、あとはお洒落番長どうし話をつけて。あたしは関係ない』
 臨場感ある音響装置から響く自分の言葉の、なんと薄情な事だろう。
 走って自分の元に戻ってきてくれた男を知らないと言い放ち、あまつさえ置いて逃げ去る。彼はその後もマナを追い、助けてくれたというのにだ。
 マナのよく知った通りの展開がT4-2のレンズを通して映し出される。
 鷲鼻の男が瞬間移動でマナを追い、銃を撃ち、T4-2に羽虫のように弾き飛ばされる。そしてマナは吐き散らかして昏倒。
 マナが次に覚醒する場面まで映像は飛ばされ、T4-2の右腕とマナが消失。そこで映像が一旦止められる。
「以降、あなたに何が起こったのか教えてください。どうやってあの女から逃げたのですか」
 T4-2がマナに助言する。
「混乱して、よく覚えていません、ただ必死でした、と答えて」
 マナは自分がT4-2の手中の操り人形か、膝の上の腹話術の人形か何かにされたような気分になってくる。
「混乱して、よく覚えていません。ただ……」マナは努めて困惑した様子を滲ませていた声色を生来の根性の悪さに歪める。映像の中の己の姿を裏打ちするように。
「腹が立ったので鼻っ柱をぶん殴ったのはよく覚えています。スカッとしました」
 マナは喜色満面で堂々と答える。
「そうしたら気絶したので、T4-2の外套のベルトで縛って戻ったんです」
「何故戻ったのですか。ロボット警官など置いて逃げればよかったではありませんか。逃げるのはお得意でしょう」
 マナの言葉に被せるように、根に持つタイプの男が問いかける。もちろんマナにしか聞こえぬ音で。
「心配だったので」
「何が」割れんばかりに頭の中に反響する声。
「この人が」
 マナは隣で立ち尽くしている男を不躾に一本指で示した。
「だって、あたしのせいで、あんなにボロボロになったんですから」
 凍りついたまま佳境の果ての終盤まで飛ばされた記録映像は、広い画角の隅にひび割れた鏡を捉えている。その中には右腕と、右下腿を失った無惨で痛々しい姿の男。文字通りの粉骨砕身の働き。
「行った所で役に立たないとしても、一人で逃げたりできません」
 電影は再び息を吹き返したように動き出し、銀幕の端から中心へ駆け寄る一人の女。
 高性能の光学レンズを原始的な手法で暗転させる女の手と腕。
「これからもしないから」マナはマイクを置いて呟いた。
 塞がれた視界の隙間から弾ける紫電の瞬きは、まるでT4-2の心象風景。
『あんたは完全無欠』
 マナの頭から鋼の手が離れ、だらりと垂れた。
 悪い人ですね。
 室のぐるりを取り巻く音響からも、真横からも、まったく同じセリフが聞こえた。

 その後の聞き取りも形式的な物で、大した追求もなく終わった。
 縛り付けられた三人組と何か会話しましたか?
 酷い怪我のT4-2に代わって監視していただけで、会話は別に……。ちょっと瞬きしているうちに消えてしまって……。
「この事、忘れた方がいいですか?」
 マナは物怖じせずに雛壇に向けて訊ねる。
「あまり人には言わない方がいいですね。正気を疑われたくなければ」
 これをもって、マナへの聞き取り調査は終わり、彼女と秀だけが会議室から解放された。
 帰るとも何も言わずにさっさと踵を返すマナを秀が呼び止める。
「待てよ」
 いつもなら、嫌だ、と言って逃走する所だが、マナは素直に足を止めて振り返る。兄を貫徹させて辱めた事をほんの少し、僅かに、ちょっとだけ、悪いと思っているからだ。それも元はと言えば自分のせいだ。
「謝ればいい? もうお酒飲んだり遊び歩いたりしませんって」
「できない約束はするな」
 秀は怒りを顔全体に滲ませるが、それも一瞬の事。すぐに真剣な表情になり、マナに廊下の長椅子に座る様に促す。そして彼自身もマナの隣に腰掛け、壁に凭れて少し聞きにくそうに口を開く。
「丁とはどういう関係なんだ」
「どういう関係ってどういう意味」
 墓穴を掘らないためにも、質問の意図は明確にしなければならない。今はマナの言動の舵取りをしてくれる者はいない。
「質問に質問で返すんじゃない。どういうって、そういうだよ。愛し合ってるとか、好き合ってるとか」
 秀は腕を組み、睨みつけるようにマナを見る。
 これでいて警察の端くれ、人間の、それも長らく共に暮らした人物の感情の機微を察知するくらいは朝飯前だろう。
「わからない」
「わからないわけがないだろうが、やる事やってる癖に」
「やってませんけど」
 マナは即座に短く言い放つ。
「その言い方、完全にやってるだろ! 普段の様子見てりゃわかるんだよ、馴れ馴れしい触り方、思わせぶりな目付き、輪をかけてつっけんどんなお前の態度」
 秀は顔に心底嫌悪を滲ませる。
「まさか家でやってないだろうなっ!」
 観念したマナは兄から視線を逸らして、怠惰に壁に背を預けてだらしなく脚を投げ出す。話を元に戻した方がよさそうだ。
「わからないでしょ。愛し“合ってる”かどうかなんて。言葉で何と言おうと、相手がどう思ってるかなんて、こっちにはわからないんだから」
「はぐらかすな。お前はどう思ってるんだ」
 お前は、という部分を強調する秀。
「あの人、あたしの事なんでも知ってる」
「なんでもって!?」
 思ったよりも廊下に響いた大声に、秀自身も驚き辺りを見回す。幸いにも会話の聞こえる範囲には誰もいない。
「痣も、両方ついてる事も」超能力者である事さえも。「けど、それも含めて完全無欠と言う。慕っている素振りさえ見せる。ああして必死で助けてくれる。良い人でしょ。好きにならないわけない」
 マナが嘘偽りなく本当と胸を張れて、わかる事といったらこれだけだった。
「あれ人間じゃないぞ」
「知らないとでも」
「気付かなかったのか? 皆妙な目で見ていたぞ、お前ら二人のやり取り。まるで」距離を縮めようと互いを探りあって駆け引きしている人間同士みたいだったじゃないか! と刑事は呻吟する。
 マナにはそんなつもりはなかったが、兄にそう見えたのなら、大抵の人間にそう見えるのだろう。面倒な事だ。
「帰っていい?」
 後は何を聞かれようと、それしか言わない、という決意を込めてマナは言う。
「言っておくけどな、あいつは純粋な興味や好意でうちに来たわけじゃないぞ。奴にプライバシーはない。だが俺達にはある。事件や事故と関りがない限り、倫理規定に則って、一般市民やその私生活に関わる物が映りこんだ記録が閲覧される事はない。というか、できないように機能的に制限がかけられている」
 まあ、平時の私生活まで警察がいつでも見られると知られたら、監視社会だのなんだの煩い事言われるから、機能的に不可能なのは問題ではない、と秀は小声で付け加える。
「だから奴がうちにいる間の記録は誰も見る事ができない。例えあいつが自分の部屋に一人でいたとしても。そこは内藤家の私生活に関わる一部だからだ」
 秀の語気が強まる。
「あの機械、俺達を利用して個人的な時間を手に入れやがったんだ! 心底信用できん。何か企みがあるとしか思えないだろうが」
 秀の邪推はあながち一笑に付せるものでもない。そもそもT4-2はマナを掌握・利用するために彼女に近づいてきたようなものだった。
 平和と自由のためとは言うが、それが本当かどうかもマナにはわからない。突き詰めれば美徳回路だって本当にあるのかどうか。
 だが、それが何だというのだろうか。どんな裏があろうが、表に出てくる行動がマナにとってメリットがあって好ましいなら関係ない。
「帰っていい?」
 白けたマナの様子など一顧だにせず秀は喋り続ける。真剣に聞いていなくても、頭のどこかに残っていればいいとでも考えているのだろうか。
「だが、このままこんな不穏な事件が続くようなら、俺らのプライバシーだってそのうち考慮の埒外になる。倫理規定の基準を緩和するように上から指示があったら? 何者かに制御を壊されたら? 今のうちに適度に距離を置け。個人的な事が晒される前に。さっき自分でも言ってたみたいに、お前知られたら困る事が色々あるだろうが」
 痣とか、両方ついてる事とか、と言いたいのだろう。
 マナ自身はそんなものが露呈したところでどうという事はないのだが、きっと目の前の男は困るのだろう。奇異の目で見られ、体面が傷つけられ、嘲笑われる事を恐れているのに違いない。先程の映像を見せられた時の荒ぶり方からして、想像に難くない。
「帰る」
 秀は腹の底から唸るような声をあげて、説得とも説教ともつかない話を終えた。
「ちょっとここで待ってろ。丁も連れて帰れ。お前、忘れてるわけじゃないよな、狙われたんだぞ」
「信用してない奴にあたしを任せるわけ」
「ある意味では信用してるぜ。お前をどうこうするつもりなら、とっくのとうにやってるだろ」
 マナは小さく何度も頷いた。
 確かに、とっくのとうにやられている。兄の慧眼は時に目を見張るものがある。
 会議室の扉が開き、警官達がぞろぞろ排出されてくる。マナには自分に刺さる好奇や困惑の視線が痛く感じられた。
 秀はそうした視線を威嚇するように睨め付けながら吐き捨てる。
「あいつがお前みたいな奴に執着する理由はまったくもって謎だがな」
「マナさんの磁力が私を惹きつけてやまないのです」
 会議室から最後に鷹揚に出てきた男がそう答えた。彼はマナが脚を崩してだらしなく座っているのを軽く窘めてから、恭しく腰を折ってマナに手を差し出した。
 しかしそのままT4-2が紳士的にマナを内藤家まで送り届ける事はなく、驟雨が迫っている事にかこつけてマナを自身の“物置部屋”に連れ込み、そして……。
 天を引き裂く猛る雷、土を穿つ雨のように、T4-2はマナを荒々しく求めて、苛めて、傷つけ、遂情させた。