乗船日和 中 - 5/5

 明け方の半覚醒の夢の中、僕は昨夜眠る前に彼女と交わした会話を思い出す。嗅覚だけは現実にあって、彼女が階下で淹れているのであろうコーヒーの香ばしい匂いを受け取っていた。
「わたしは喘息で、もう薬が尽きてしまうから」
 彼女は僕の汗まみれの身体を拭きながら唐突にそう言い出した。病気だなんて知らなかった僕は驚いて、ただ息を詰めて彼女を見ている事しかできなかった。
「薬がなくなって発作が起こったら死ぬ程苦しむし、結局程なく行き着く先は死だから、それなら苦しんで無為に死ぬ前にエルドリッジに命を還す事にするの。わたしきっとそこから来たから。そういう気がするのよ」
 到底深刻ではなさそうな言い方だった。知り合いの話でもしているかのようだ。僕にはすごく差し迫った深刻な問題なのだけれど。
「びっくりさせてしまってごめんなさいね。でも薬はあと半年分くらいあるから、今日明日という話ではないのよ。言わないでおこうと思ったけれど、もしもの事があったらその方が驚かせてしまうでしょう。今日みたいに家に来てくれた時にわたしが死んでいたら」
 彼女は僕の頭を撫でて、一緒の布団に潜り込んできた。僕は彼女をぎゅうぎゅう抱きしめて胸の中に閉じ込めた。絶対にどこへもいかせたくなくて。
「さがすから、薬。お、お金、あるから、だいじょぶだから」軍からの退職金や傷痍軍人のための恩給があった。今の給料だって殆ど手付かずだ。使い道がなかったから。たぶん、今が使う時なんだと思った。
 けれど彼女は緩やかに首を横に振った。
「お金がいくらあってもままならないのよ。物がなければね」
 商売人の彼女がそう言うのだから確かな事なのだ。前時代の高度な医薬品はもはやこの大陸のどこを探しても見つかりはしないのだろう。頭痛薬やレコードの針が出回るだけ有難いくらいなのだ。
「だからあなたはいつも通りでいて。その方が嬉しいわ。わたしもその時が来るまでいつも通りの生活をするから。あなたとこうして……」
 目と鼻の奥が熱く痛くなって、僕は完全に目覚めた。
 階下からは二人の女性の楽しげな話し声が聞こえる。気分が少し晴れた。彼女とレックスがこれからもああして仲良く過ごしてくれたらいいのにと思う。
 起き上がると腰の奥が鈍く重たく、枕元に丁寧に畳んでおいてあった服を身につけると彼女につけられた胸の真新しい傷が服に擦れて疼いた。そして躾を施された胸の先端はシャツを押し上げ存在を主張していてかなり恥ずかしい。しかし鎮めるすべもなくどうしようもない。
 僕はゆっくりと階下へ降りてゆく。古い階段は軋んで験の悪い音がした。
 邪魔者の降りてくる音が聞こえたのか、話し声のトーンが変わった。含み笑いとか、ひそひそ声に。
 僕がダイニングに入ると朝の挨拶もそこそこにレックスが叫ぶ。
「エンデュアランス号を見た!」
 ああそう、と僕は面白味のない返事しかできない。
「それだけ!?」レックスは口をあんぐり開けて不服そうにする。こういう時どういう返しをすれば気が利いていると思われるのか、血の巡りが悪い僕にはわからない。
「彼そういうの見慣れているから。あなたが道中に車や鉄道を飽きる程見ているのと同じだわ」
 僕が席に着くと彼女がコーヒーとワッフルを出してくれた。それに手をつける前に僕は向かいに座るレックスに一晩の代役の礼を伝えた。
「いいんですよ。最後に大尉殿のお役に立ててよかったです」
「さいご」てっきりずっとこの町にいるものとばかり思っていた。
「朝食召し上がったらもうお発ちになるのですって」
 名残惜しく行かせたくないのか彼女はレックスの皿におかわりのワッフルを大量に乗せてコーヒーをなみなみとつぐ。
「妹を見つけたんで、今まで迷惑かけたりお世話になった人達にお礼を言いながら来たんです。最後が大尉殿のところ」
 僕も彼女も何も言えず、あるいは言わず、そうすると話したがりは益々饒舌だった。
「砂漠にある大昔のハイウェイ沿いの」行商人の言葉は太古の不思議な詩のようだった。「太陽の明かりがない時だけ翠に輝く肉の神殿。誰かが通りかかると壁が一斉にさざめいて手を振る。まるで招くように」
 どうです今のすんごい詩的でしょう、とレックスは得意げに続ける。
「自分はその窓の中に妹の姿を見ました。戦時中に行方知れずになった妹です。あの子は病気で長くなかった。まあもう生きてはいないだろうと思いつつ方々長らく探していたんですが、本当に生きてはいませんでしたね」
 海には海の陸には陸の脅威がある。海で船の形を取るものは、陸においてはかつて栄華を誇った建造物や娯楽施設の形をとって生者を誘う。運が良ければとり込まれた者はその面影を保ったまま異次元の一部になる。妹はそうなったのだろう。
「あの子は今やルート66のホテルカリフォルニア。ロビーのソファに根を張って穏やかに微笑んで。生きてた時みたいに胸が苦しそうな感じなんてなかったな。だから自分も中に入ろうと思います」
 僕はマグカップをテーブルに置いて——思ったより大きい音が鳴って、動揺しているのがバレたかもしれない——かつての部下を見た。つまり死ぬということではないか。せっかく五体満足で戦争から戻れたのに、そんな事しないで欲しい。
「やあ、わかりますよ、言いたい事は。けど妹しかいなかったんで、家族、もう」
 レックスの言葉に悲壮感というものはなく、話しながらもバターの塗られたワッフルを上品に切り刻んで食べている。
 彼女と同じだ。決めてしまった人にとっては明日の予定のように伝えたり、朝食食べながら話すような事なのだ。それは止めようのない事で、僕がどんな気持ちになろうが反応をしようが構いやしないんだ。
 彼女は道すがらに僕の肩を撫でてダイニングルームを出ていった。店の準備をしに行ったのだろう。
 彼女の影が室から消えると、レックスは俯いて絞り出すようにゆっくりと口を開く。
「大尉殿がまだ独りなら仕事手伝わせてもらおうかと思ったんですが遅きに失しました」
 もしかしてそのためにこんな田舎まで来たのだろうか。仕事を探しに。確かに灯台守はセールスマンよりかは楽な仕事だろう。僕は遅ればせながら彼女を必死に引き留めた。
「……じゃあ、そうして、ほしい。こうして、た、たまに、休みたい、から」
 レックスは、あは、と気の抜けた声を出して僕を見る。
「わかんない人だなあ。仕事したいから言ってるんじゃないですよ。仕事なら自分はこれが一番向いてるんで」
 大陸横断セールスマンは空になった皿を洗い場に下げて椅子の背にかけていた上着を小脇に抱える。とうとう出発してしまうのだ。
「あの人の事はもっとちゃんと言葉……は無理か。態度を尽くして引き留めた方がいいですよ。私にそうするより難しいと思いますけどね」
「し、しって、いるの、か、彼女の」船に還るという話を。もしや病の事もだろうか。
 僕は動揺して立ち上がる。僕にはやっと先日と昨夜話したような事を、昨日だか一昨日会ったばかりの人間にはもう明かしているだなんて。行商人だてらに話が上手いにしてもあんまりじゃないか。わなわな震えて泣きそうだった。
「わあ、そんなおっかない顔しないでくださいよ。なんとなく、妹に似ているのでそうかなって。呼吸病んでて、半分この世の人じゃないみたいなところ。大当たり」やったね、とセールスマンは舌を出す。しかしそんなふざけた態度をすぐに一変させ、僕の前で直立不動になる。
「ありがとうございました。こうして生き延びて妹を見つけられたのは大尉殿のおかげです。けどあなたは私の代わりに……」
 レックスはそれ以上は言いにくそうに弱々しく項垂れた。済んだ事は忘れるタイプかと思っていたが、人並みかそれ以上に気に病むのか。
「きにすることない」
 僕がレックスを咄嗟に庇って捕まったのは自分のためのようなものだ。部下があんな目に遭わされたのなら罪悪感に押し潰されて今よりもっと精神的に酷い状況になっていたはずだから。
「そう言ってのける人だから気にするんですよ」
「あいつらみんなさがしだしてころした」
 少しでも気を楽にしてやりたくて思わず言ってしまった。
 終戦後の事だから犯罪なのだが、まあ、法などあってないようなご時世だからノーカンだろう。
「やっぱり個人的に人殺してるんじゃないですか!」レックスは目を見開き、そして笑った。「こう言っては不謹慎ですが、あなたの心身の負傷の責任を一生かけて償いたかったものですね。けどそれは自分の役目ではなかったようだ」
 かつての部下は爪先立ちになって唐突に僕の唇に自分の唇を押し付けてきた。優しく、慈愛のこもった、まるで彼女が僕にするような親愛のそれだった。わけがわからなかった。
「では、彼女にもよろしく伝えておいてください」レックスは軽快に片手を上げ、ダイニングの勝手口から外に飛び出した。「彼女独占欲強いですね。一晩くらいあなたの事貸してくれてもよかったのに!」そして軽快に走り去ってしまった。
 口付けを残されて混乱し、僕はそれを呆然と見送るしかなかった。
「いってしまったの」
 声の方を向くと、ダイニングの戸口に青白い顔で立つ彼女がいた。いつからそこに立っていたのだろう。唇を重ね合ったのを見られただろうか。殺人の告白を聞かれただろうか。
 いや考えるのはよそう。もっと他にしなければならない事がある。
「わたしは」彼女の言葉に僕は大きな声を被せる。「僕も一緒にいくから」難しいなら引き留めるのはやめた。僕は彼女と一緒にあるだけだ。
 彼女は目を細めて微笑んだ。悲しそうな笑顔だった。どうしてそんな複雑できれいな顔ができるのだろう。
「あなたにそんな決心させたくなかった。レックスのように。覚悟を決めた彼女は綺麗だったけれど、わたしはいって欲しくないと思ったわ。勝手よね」
 僕は彼女の言わんとする事がよくわからなくておろおろしてしまう。胸を張って言い切ったというのに締まりがない結果になった。
「わたしさっき、自分から船に乗るのはやめると言おうとしたのよ。わたしがレックスに感じたように、もしかしたらあなたも悲しんでいるかとふと思ったものだから」
 彼女はゆっくりゆっくり近づいてきて、僕に寄りかかってきた。シャツを握りしめて顔を僕の胸に押し付けて、もう表情を見る事はできなかった。
「そうだったらいいとさえ」
 僕はやっと、彼女は自分の意思で船に還る事はしないんだ、と気づく。
「あなたは折角戦争から生きて戻ってきたのだもの。つつがなく天寿をまっとうして欲しいわ。わたしが死んだらわたしの事は忘れて。だからあなたが悔いる様な、記憶に鮮烈に残るような死に方はしないから」
 泣いているように彼女は小さく震えていて、僕はただその人を腕の中に囲い込んで撫でるしかなかった。
 僕は彼女のいない所で生きるのは辛いから彼女にいかないで欲しいと思っていた。けれどその願いが叶ったというのにそんなに嬉しくはなかった。彼女は病に蝕まれていて、僕のために苦しんで生きる事になるのだから。
 一番いいのはやはり彼女が最初に考えた方法だったのだ。それに僕も乗っかるのが最善のやり方だろう。
 僕は彼女と一緒にエルドリッジに還る。

乗船日和 中 おわり