早朝の海には靄が立ち込めて茹っているかのよう。陽光は細かな煙に阻まれてぼんやりと拡散して目に優しい。
沖に向けて掲げた双眼鏡をぴったりと窓にくっつけてスクリーンのような靄越しに今日の顔ぶれを確認する。太陽の遍く威光の届かないこうした日には日中でも船を見る事ができた。
霧を裂いたり纏ったり、悠々自適、優雅に泳ぎ回るのは横っ腹に鱗のように盾をぶら下げた大昔の帆船や、蜃気楼の名をいただく帆船、南極横断探検船など。少なくとも機能的な見た目の駆逐艦は一隻もない。
僕は安堵した。エルドリッジは今日も来ないだろう。この軍用双眼鏡で観測できる範囲にいないのであれば明日の夜までは安泰。まだ彼女が死出の船旅に身を任せる理由はない。
安心したら欠伸が出た。そろそろ眠る時間だった。悪天候や視界の悪い日は彼女には来ないように厳命しているから、起きて待つ必要はない。
眠気が逃げないように手早く歯を磨き、ベッドに腰掛けてのろのろとシャツを脱いでさあ寝よう、というところで戸が叩かれた。
彼女の音だった。
どうしてこんな靄の日に来たのだろう。何か急用か、事件か、事故か、未曾有の天変地異か。
僕は諸肌脱いだまま急いで——片脚しかない割には急いだ方だ——居住区の扉を開けた。
内開きの扉を慌てて全開にしたものだから、来訪者二人の姿は一度に一目ではっきりと視認できた。
僕は鷹揚に朝の挨拶をする彼女だけを部屋に引っ張り入れて扉を閉めて鍵をかけた。
「だれ……」図々しく君の横に立っていた輩は、という余計な台詞は発話能力の欠けたる故に言わずに済んだ。ぎすぎすした物言いになりすぎて彼女に嫌われてはことである。そうなっては僕は今後生きてはいかれないから。
彼女は朝靄の細かい粒を貼り付けてきらきら輝く外套を脱いで戸口の横のコート掛けに吊り下げながら言う。「あなたのお知り合い」思い当たる節はなかった。いや、知り合いが一人もいないという意味ではない。少なくともあんな上等な機械織の三揃いを着るような人間は知らない。
「以前あなたの隊にいた方ですって」彼女は来訪者の名を告げて、ついでに「火薬庫で煙草吸う人」そう付け加えた。
それでやっとおぼつかない記憶が掴めた。元から洒脱な感じではあったが、身綺麗にして泥臭くない場所で見ると一層垢抜けて誰だかわからなかった。それに会うのは十年とまではいかないが、ややしばらくぶりだ。
ややしばらくぶりなのは、彼女以外にまともな理由があって僕に会おうなどという人間が来る事それ自体もだ。そう思うと緊張してきた。
退役軍人にありがちな身を持ち崩しての金の無心なら螺旋階段から突き落としてやろう、と僕が決意をこめて扉に手をかけると彼女は小さく笑って、旧知の仲でもシャツくらいはお召しになったら? と言った。「だってキスマークついているもの」
慌てて身体を見下ろし検めている隙に彼女は僕の胸元と首筋に吸い付いて痕をつけたのだった。こういうところが妙に積極的で困る……いや翻弄されて嬉しい気持ちも多分にあるが、他人に会う前に脳が腫れたようにくらくらしてしまう。それに首につけられた痕はシャツ程度じゃあ隠れないじゃないか。
突如やってきたその客人、僕のかつての部下は今は行商としてこの大陸の方々を回って日銭を稼いで暮らしているらしい。僕とはまったく違う社交的な生活だ。
軍からの横流し品を元に商売を始めて今では生活に不自由はないらしく、そこは安心した。かつての部下が落ちぶれているのを見るのは切ないから。
この町には昨夕到着し、商店に物を売りつけながら灯台に渡る術を探していたらしい。砦には昨日今日現れた余所者のために船を出してやる寛容さはないし、小舟を持つ漁師達だってそうだ。
「品物も尽きてきたしもう諦めようかと思ったんですが、たまたま入った雑貨屋で彼女と会えたから運が良かったですよ。天は私を見放さなかった。文字通りの渡りに船。しかも渡守つきの」
会うのは久しぶりだというのに、物売りは気兼ねも遠慮もなくよく喋った。お喋りが止まるのは彼女が淹れたお茶を飲む時くらいなもの。
「おかげでこうしてまた大尉殿とお会いできましたしね」そしてどうでもよさそうに片手を軽く上げて付け加える。「お元気そうで何より」何しに来たんだ。
しかも彼女を便利な船頭扱いとは。こんな見通しの悪い日に船を出させて。僕は腰掛けた脚の間に突き立てた杖の上で重ね置いている両手を握りしめた。
一方彼女は鷹揚なもので「お役に立ててよかった」と客の横に腰掛ける。そしてあまつさえ「レックス」と、そいつの愛称まで親しげに呼びかける。僕はそんな風に呼ばれた事なんてないのに。大抵はあなたとか、よくて灯台守さんとか、大尉さんとか……いやでも情事の最中に大尉さんと呼ばれるのは職務中にいかがわしい事をしているみたいで悪くはなくて……まあそんなのは今考える事ではない。
話を戻すと、彼女は特別僕だけに優しいというわけでなく、誰にでも分け隔てなくそうなのだというだけだ。
彼女はエルドリッジがこの町に接岸した夜に来たと言う。物心がつくかつかないかの頃だったそうだが、奇しく翠に輝くその姿はしっかりと覚えているのだとか。雑貨屋の老婆がこの離れ島で彼女を見つけた時に近くに親はなく、それ以来老婆に世話になってきたらしい。彼女の客商売の作法や人当たりのよさは育ての親の教育の賜だろう。
その老婆も先日都会の息子夫婦の元へ越してしまい、今は彼女一人で住居兼店舗に暮らしている。
親代わりが遠くに、それも本当の家族の所へ行ってしまったのが淋しくて、それで自らエルドリッジの一部になろうだなんて考えたのだろうか。よくわからない。自分の事さえよくわからないのに、他人の事なんて。
僕は彼女の事をなにも知らない。
「わたし、彼の事をなにも知らなくて」彼女も彼女で僕を見ながらそう客人に言う。僕には彼女に知ってもらうべき事はもう何もないとは思うのだけれど。心に渦巻く薄汚れた核心は無様にすべて曝け出したのだから。これ以上の何を知りたいと言うのだろう。聞いてくれたら何だって饒舌に答えるのに。
「だからあなたから色々お話聞けてとてもよかったわ」うふ、と彼女は首を傾げて行商人に微笑みかける。
「どんな」話を聞いたのか。ない事ない事吹き込まれたのではないだろうか。彼女に変な印象を植え付けられては困る。しかしそんな話「いつ」したんだ。
どんな、いつ、と発話した僕を、あっ、喋った、と物売りが不躾に指差す。今はもう違うとはいえ上官に、それも歳上に対してそうした見世物小屋の動物にするような態度はどうかと思う。
「昔から無口だったとか、おまけにその仏頂面でどんな時も顔色一つ変えないもんだから、何を考えているか分からなくて威圧感があったとか、そういう話ですよ」
まったくの事実無根だ。以前はもっと頭がすっきりはっきりとしていたから、ちゃんと言語で他人と意思の疎通もできていたし表情も豊かだったと思うのだけれど。それに僕は結構くよくよする性質で威圧感だって人から与えられる方が多かった。
「みんなよく言ってましたよ。戦争とは別にして個人的に何人か殺してそうって」
酷い言い草だった。これまで虫も小動物も殺した事はないというのに。その時分にはまだ人間だって手にかけてはいなかった。
「煙草の火も素手で握り潰すくらいだし。平気な顔で」
それは火薬庫でいきなり火をつけるから狼狽えてそうしてしまったに過ぎない。ちなみに火傷はした。しばらく痛かった。全然平気ではない。
「という話を昨日の夜彼女にしたんです」
「よる」
「彼女の家に泊めてもらったんで。久しぶりにベッドで寝たなあ」
僕はやにわに片脚で立ち上がり、逆手に構えた杖を物売りの胸に勢いよく突き立てた。突端が金属製の杖は寸分違わず第三肋間に吸い込まれて心臓を貫きその薄い身体をソファの背に縫い止めた。
彼女の密やかな嗤い声が耳を打つ。
雑に杖を引き抜くと噴水のように血飛沫が上がって、隣に座る彼女の白い顔に点々と染みをつける。まるで斑入りの花弁だった。とてもきれいだ。
「愉しかったわ」一夜を共にした相手が目の前で絶命しても彼女はたおやかや笑みを絶やさない。「近頃、夜は大抵いつも一人だから」淋しいと言うのならこれからはずっとここで暮らせばいい。気の利いたお喋りもできない醜い男とは嫌と言うのなら、縛り付けて、あるいは手足の腱を切り裂いて、閉じ込めてやってもいいんだ。僕なしに生きられなくなれば少しは有り難みも湧くだろう。そしていつか混乱して壊れた精神を愛か恋が蝕むかもしれない。
「少し怖い時もあるの」怖いわ、あなたらしくない事おっしゃるのね……と彼女は宣う。
僕の事を何も知らないと言ったくせに、らしくないなどと、よくもそんな事を。いま言った以上の残忍な行いだってしてきた。果たして人間の息の根を止めてやった事さえ。彼女にだけはそうしないなどと、どうして言える。
僕は激情にかられたまま彼女の上に跨り恥辱を与える。服の上から胸を鷲掴み、先端を弄び、強引な快感を引き出してやれば「大尉さん……」彼女の唇が花開くように綻びて甘い蜜の息を漏らす。僕はそれを荒々しく喫しながら彼女を凌辱する。受け入れるのは僕の方だが、同意なく熱と精を奪うそれは凌辱と言って差し支えないだろう。
一夜の情を交わした者の死体が横に転がっているというのに、彼女の怒張は雄々しくいきり立って杭のように奥を突く。「……大尉さん」心地良さそうな女の声が耳元で弾けた。
「ああ……」思わず溜息が漏れた。なんて淫らな女。悪魔だ。僕を……人を弄ぶ。男だろうと女だろうと同衾して犯して魂を奪う。そして無惨な亡骸の横でも、むしろだからこそ昂るのだ。
僕は彼女の名を何度も何度も何度も何度も叫び言葉を尽くして罵りながら腰をふりたくり邪淫を追い上げた。彼女のために性器として誂えたはらわたの粘膜が濡れた淫らな音を立てて太い性器に吸い付く。
互いの素肌に鮮血を塗りたくり、舐めて、その唇で接吻をした。僕は手負いの獣のような嬌声をあげる。血に塗れて、死体の隣で耽る行為は野生味溢れてとても「大尉さんたら」僕はうつつに戻り、杖を逆手に握りかけていた手を大人しく定位置に戻した。
「何度も呼んでいるのよ。おねむかしら」確かに夢半分だった。気を取り直した今や、僕を覗き込む彼女の顔には血の汚れどころか淫らな色の一つもない。
「やあ、なんかよからぬ事でも企んでるんでは」胸から血を噴き出していた物売りも当たり前だが何事もなく嫌味なまでに身綺麗なまま。「夜這いとか。ムッツリだなあ」当たらずとも遠からず。
僕は溜息をつこうとして、しかし代わりに出てきたのは欠伸だった。
「おねむなのね。わたしもそろそろお店を開けなくてはいけないから、帰ります」ゆっくり休んで、と彼女は僕の額に唇を押し当てた。親愛のキスだろうけれど、人前でされるとちょっと恥ずかしい。肌が触れ合ったせいで滾りが結実して腰がじんわり痺れた。
「一緒に行く。もう売るものもないし、今日は店手伝うよ。昨日泊めてもらったお礼」
眩いばかりの笑顔を浮かべて物売りが申し出る。泊めてもらったばかりか、彼女と一緒に仕事までするなんて図々しい。
「ありがとう。最近片付けなんかもあって忙しいから助かるわ」
並び立ち灯室を後にしようとする二人に慌てて追いすがり、緊張してしまうので彼女だけ先に行かせて、かつての部下の方は留め置く。
そして努めて冷静に穏やかに丁寧に、なるべくどもらないように僕は頼み事を伝えた。勿体つけられるでもなく、望みは思ったよりも簡単に受け入れられた。
「鬼気迫って引き留められたから殺されるのかと思ったら、やあ、なんだ、そんなこと。いいですよ。大尉殿のために遠路はるばるこんなド田舎まで来たんですからね、お任せを」
しばらくぶりで忘れていたが、この部下はなかなか気風がよく、爽やかなのだった。そりゃあ彼女も気にいるはずだ。勝負にすらなっていない。
僕は眠る前に一度尻の拡張を施し、先程の白昼夢の続きを想いながら盛大に自慰をして諸々の昂りを鎮め、それからゆっくりと休んだ。夜に備えて。